田母神氏の親は「人を殺せ」と教えしや
航空自衛隊幕僚長・田母神俊夫は日本軍の朝鮮・中国等への侵略戦争を、侵略ではないと擁護し、退職に追い込まれた。侵略性を否定するなど、あほらしくて論評する気にもならないが、彼の発言は軍隊の本質を如実に物語っている。
11月11日、参院外交防衛委員会で参考人として、井上哲士議員(共産党)の質問に対し、次のように答えている。
「日本の国をですね、やっぱりわれわれがいい国だと思わなければですね、頑張る気になれませんね。悪い国だ悪い国だと言ったんでは自衛隊の人もどんどん崩れますし、そういうきちっとした国家観、歴史観なりをですね、持たせなければ国は守れない、と思いまして私がこの(国家観・歴史観という)講座を設けました」。
そのとおりである。何と言っても、軍隊は戦争で敵を殺すのが任務である。自分たちの行動が正しいと思わなければ、人を殺すことはできない。
「兵士が敵を殺せない」という事態は、とりわけ第1次世界大戦以降、各国軍隊の大問題になってきた。
第1次世界大戦(1914-18)で初めて、徴兵制により各国の国民が大規模に戦場に動員されることとなった。戦争開始後1ヶ月で、ヨーロッパ全体で1000万人が動員された。
当初、「戦争は1ヶ月で終わる」と考えられていたが、機関銃や塹壕が登場し、戦争は長期消耗戦へと変わっていった。
敵の見えない塹壕の中で、死の恐怖と戦うことになり、体が震えて歩けなくなる、砲弾が炸裂する音を聞いただけで理性を失い、ヒステリー症状になる、赤い色を見て血を連想し、おびえる、などの症状を呈する兵士が、イギリスだけで8万人にのぼった。
イギリスの医者はこれらの兵士を砲弾で脳に異常をきたしたと考え、「シェル(砲弾)・ショック」と名づけた。
その後、心因性と考えられる例も見られ、脳の障害ではなく、心に起因していると考えられるようになり、「戦争神経症」とも呼ばれるようになっていった。
「シェル・ショック」、「戦争神経症」の患者が激増して各国の軍隊は兵員不足に陥り、患者の処遇が大問題になった。戦線に復帰させられた「戦争神経症」の患者が塹壕で動けなくなり、「臆病罪」で死刑に処せられ、遺族は戦争年金も受け取れないといった事態が生じた。
ドイツ精神医学会・神経医医師会は、戦争によって戦争神経症が起こると認めると賠償問題になるので、「患者自身の『意思』に問題がある」とした。患者が生き残りたいと思うからいけない、と考え、患者の生き残りたいという意思を打ち砕くことが治療とされた。
フランスのクロビス・バンサン医師は、70ボルト・35ミリアンペアの電流が流れる器具を兵士の体に押し当てる「魚雷攻撃システム」を導入した。
「ひどいやけどをしたみたいで、めまいがした。茫然自失となり、夜も眠れず、しばらくの間、脳が働きませんでした。」 電気ショック療法を受けた兵士たちはこう述べている。
痛い思いをしたくなければ、患者は病気であることをあきらめるしかない。
バンサン医師は「半年で300人の兵士を戦場に戻した」と発表、電気ショック療法はドイツ、オーストリアでも盛んに行われるようになった。
日中戦争から太平洋戦争を戦った日本軍兵士も、多くが精神を病み、前線から送り返された。陸軍病院で「電撃が療法」が行われていた。
「電気をかけると鼻血の塊のようなものが出て、頭が痛くて、目の前に紋白蝶のようなものが見える。自分は今に死刑になるのでありますか。」(電撃療法を受けた兵士)
「戦争神経症」の理解を深めたのは、オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイトである。
「戦争神経症は、自我の葛藤によるトラウマ的神経症と見ることができ る。戦争神経症の直接的な原因は、軍が求める危険な任務、自らの意思に反する理不尽な命令から逃れたいという無意識の心の働きである。殺されることへの恐 怖、他人を殺せという命令への反発、これこそが戦争から逃れたいという気持ちを助長した最大の要因であった。」
第2次世界大戦(1939~45年)では、航空機や戦車など、機動力のある兵器が主役として登場し、激しい地上戦が展開された。
米軍兵士に、目立った外傷がないのに戦えなくなった者、気分が激しく落ち込んだ者(「戦闘疲労」)が続出した。彼らは「これ以上、人が殺されるのを見るのが耐えられません」と言った。
激しい地上戦が行われた沖縄戦でも、多くの兵士に症状が表れた。
心理的なダメージにより戦えなくなる兵士たちの数は、米軍の想像を上回るものだった。過酷な戦場でも戦い続ける強い兵士を育てるにはどうしたらいいのか。
歴史学者、S・L・A・マーシャルは第2次大戦末期、アメリカ政府の要請で多くの兵士の心理状態を調査した。
その結果、意欲の高い歩兵部隊でも、実際の戦闘で敵に発砲する兵士の割合=発砲率はわずか25%であることが明らかになった。
「人は同胞たる人間を殺すことに対して、ふだんは気づかないが、内面には抵抗感を抱えている。その抵抗感のゆえに、義務を免れる道さえあれば、何とか敵を生命を奪うのを避けようとする。いざという瞬間に良心的兵役拒否者になるのである。」
その上で、マーシャルは、兵士の訓練を、戦場の実態に近づけるよう提言した。
射撃の訓練に、丸や四角の的を撃つのではなく、人間の形をしたシルエット標的を使う。そうると兵士は、敵はあの人型の標的のようなもので、戦場で自分が撃つのも、人間のように見える物体なのだ、と考えるようになる。
兵士が他人を殺すことに抱く抵抗を克服することが必要とされたのだ。
1950年に勃発した朝鮮戦争では、発砲率が第2次大戦時の2倍に跳ね上がった。マーシャルは1957年、軍に功績のあった民間人として表彰された。
1965年、米軍はベトナム戦争に本格的に介入、年末までに18万人を超える地上部隊を投入した。
新兵は連日、立ち上がれなくなるまで体をいじめ抜く基礎訓練を受け、あらゆる場面で「KILL(殺せ)」という言葉を叫ぶよう、指導された。
「基礎訓練とは条件づけで、新兵から民間人の部分を消し去り、兵士に変えるために行う。兵士の仕事は人を殺すことであり、そのために命を落とすことを恐れるなと、徹底的に教え込む」 (当時の新兵訓練係)
射撃訓練でも、突然現れる人型の標的に射撃するように変わった。
「標的を撃つように何度も何度も繰り返しておけば、実際の戦闘でも、人間ではなく、ただの標的に向けて発砲していると考えるようになる。もう、喜んで撃つようになる。起き上がった標的をバンと撃つ。そのときはもう、なにも考えていません。」(当時の新兵訓練係)
戦争は泥沼化し、米軍は50万人もの地上軍を投入し、「サーチ・アンド・デストロイ(索敵せん滅)作戦」を開始した。
解放戦線の根拠地と見られる村を空から探索した後、地上部隊を投入、その場にいる村人をとらえて尋問。解放戦線の村と見れば、貯蔵してあった食料を捨て、村を焼き払うのだ。
こうした作戦を実行できるよう、事前に教育された。
「まず、敵は人間以下だと教える。ベトナム人は銃をまっすぐ撃つことすらできないと教えたりもした。あいつらの目は細くてよく見えない。アメリカ人の丸い目とはちがうんだとね。敵を殺させるには、相手が人間だという感覚を徹底的に奪っておくことが重要です。敵も同じ人間だと感じた瞬間、殺せなくなるからです」(当時の訓練係)
射撃訓練には、菅傘をかぶった、ベトナム人そっくりの人型を使っていた。東洋人の特徴が強調されていた。
ジャングルの接近戦に新たな射撃法が導入された。標的を確認できなくても、瞬時に発砲する訓練である。茂みの中で銃の閃光や煙、何か動くものが見えれば、その辺り一帯をめがけて撃ちまくる。
訓練は大きな「効果」をあげた。待ち伏せ攻撃で兵士の戦闘への参加は事実上100%になった。
1968年3月、解放戦線を追って南ベトナムの農村ソンミ村に入ったアメリカ利軍の部隊が、老人や女性、子どもなど、民間人およそ500人を殺害 した。調査の結果、虐殺は軍の命令で行われたことが明らかになっている。部隊の責任者は逮捕され、軍法会議で有罪判決を受けた。
25人の村人を殺害したと証言した元陸軍兵士 バーナード・シンプソン。当時19歳だった。事件から20年後、イギリスのテレビ局の取材に対し、自らの行為を克明に語っている。
「一人の女性が何かを抱えて走り去りました。女を撃ちたくはなかったけれど、命令でした。私は彼女がきっと武器を抱えているのだと思いました。 でも、実際は赤ん坊でした。3回か4回か撃った弾は彼女の体を貫通し、赤ん坊の顔も吹っ飛ばしていました。私はおかしくなってしまいました。人を殺す訓練が私の中でよみがえってきたのです。1人を殺してしまえば、2人目はそれほど抵抗ありません。次はもっと簡単です。何の感覚も感情もなくなり、とにかく殺しました。」
「私は自分が許せません。たとえ命令を受けてやったことだとしても、どうして忘れたり許したりできるでしょう。」
「これが私の人生です。私の過去、現在、未来です。この男性と子ども、この女性と赤ちゃんです。写真を見なくても夢に出てきます。心に焼き付いています。」
インタビュー当時、シンプソンは精神科の治療を受けていた。「私の神経をいくらかでも鎮めてくれるのはこれ(薬)だけです。薬を飲んでも緊張して いますが、これなしだと爆発してしまいます。自分をコントロールするために飲んでいます。飲んでいないと誰かに何かをしてしまうかも知れません。薬を飲め ば大丈夫です。」
シンプソンはこのインタビューから8年後の1997年、ショットガンで自ら命を断った。
ソンミ事件が報じられた直後、ベトナム帰還兵たちが戦争体験を告白する集い「冬の兵士」の聴聞会が開かれた。
敵を殺すことを刷り込まれた若者たちの怒りが噴き出した。
「民間人と敵兵を区別するのが建前だったが、死んだやつは皆、敵兵だということにして、結局、おかまいなしさ。」
「柔道、ナイフなどあらゆる訓練で、殺せ、殺せ、殺せと叫んだ。やつらを殺すのが待ち遠しかった。」
「やつらは釣り目で、自分たちより劣っていると教えられた。アメリカ人は文明人だと言って、やつらのことなど見下していたんだ。」
精神科医ロバート・リフトンは、ベトナム帰還兵の聞き取りを精力的に行い、分析した。
「私が話を聞いたベトナム帰還兵は、残虐行為につながる重圧を受けていたと主張する一方で、人を殺した責任が自分にあることを強く認識していました。
ですから、ソンミ事件に関わった兵士でも、自分の心と向きあえた者は、罪の意識に生涯苦しむことになりました。
そうした人たちは、兵士として敵を殺すことを叩き込まれた自分と、それを実行したときのおそろしい記憶を抱え、人生を生きていかなければならないのです。」
1980年、リフトンらの提言を受け、アメリカ精神医学会の診断マニュアルに、PTSD(心的外傷後ストレス障害 Post-traumatic Stress Disorder)という新たな診断名が追加された。
兵士の心の傷、トラウマが症状を引き起こし、その後の人生に重大な悪影響をもたらすことが、初めて認知された。第1次世界大戦でシェル・ショックが見つかってから、60年以上が経っていた。
「PTSDの具体的な概念は、ベトナム帰還兵の研究で確立した。かつて、シェル・ショック、戦争神経症、戦闘疲労と呼ばれたものは、すべてPTSDと同じものだと分かっています。
PTSDが認知されたことは、兵士たちの苦しみを理解する上でも、社会にとっても、重要なことでした。
PTSDは過度の飲酒や暴力などによって、自分を傷つけたり社会に敵対するような行動を長期にわたって引き起こしてしまうからです。」(リフトン医師)
自衛隊幹部には、田母神氏の「決起」を評価する声が多いという(11月24日 朝日新聞朝刊3面)。「自国の歴史を否定的にとらえるのでは強い自衛隊をつくれない」とか「自分たちは世間から理解されていない」という思いが鬱積していると言う。
人を殺すことをためらう正常な人間を、躊躇なく殺せる兵士へと洗脳し改造していくのが軍隊の任務である。だからこそ、軍隊は自らを正当化する。
戦争を放棄した日本で、20万人以上もの兵士が税金で雇用され、人殺しの訓練に膨大な資源・エネルギーを浪費し、温暖化に「貢献」している。
田母神氏にとっては、その矛盾が「トラウマ」となり、侵略戦争肯定・改憲へと逆ギレしているのだ。
(アース)
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